先日の診察で分かったことですが、私が生まれた理由は、他の人格とは全く違っていました。
重症のDIDの方は、基本人格を探す事が難しいのだそうです。
けれど、私は5歳の桜が閉じ込められた時に作られた「空想の姉」なのだそうです。
これは珍しい事では無いそうです。
10歳未満の子供が転校などで、孤独な想いをした時、幽霊と遊んだ、という体験談があります。
耳にした人は多いと思います。
新しい環境に慣れると、現れなくなる幽霊は、怪談には当てはまらないんです。
精神科医に言わせると、これが「空想の友人」の正体なのだそうです。
私は「空想の姉」で消えるはずだったんです。
けれど、5歳の桜にとって「空想の姉」だけでは、自分を支えることが出来なかったんです。
無意識に人格を作ってしまったそうです。
私も「空想の姉」から人格に変化してしまったんです。
私が、元は「空想の姉」だったから、基本人格が「5歳の桜」だと知っていたんです。
「空想の姉」が人格になってしまうのは、珍しいことだそうです。
実年齢よりも年上の人格が多い患者は、守ってほしいという願望の現われだそうです。
年下の人格が多い患者は、甘えたいのだそうです。
私は農民の女性でした。
当時の農民は、恋愛が自由でした。
武士の記憶では、妻を選ぶ事は、許されません。
本当に愛している女性がいても、側室にすればいいと言われて、辛い思いをした武士は、多かったんです。
私は16歳の時、おさななじみの17歳の男の子に「俺と夫婦にならないか?」と軽く言われました。
私は、彼が好きだったから、うなづきました。
それに、現代でいう「婚前交渉」は、普通の事でした。
彼は「よし決まった」と言って、二人で庄屋の家に報告しました。
その年は、飢饉でした。
彼は「闘う」と決めました。
私は、砥石で、鍬を尖らせました。
自分の武器には、鎌を研ぎました。
彼は「お前は来るな」と言いましたが、私は「子供がいれば行かないけれど、一緒に行く」と答えました。
彼は判ってくれたのだと思います。
抱き合って「どんな結果になっても後悔しない」と言葉を交わしました。
当日、彼は鍬で、刀を折って、敵に大怪我をさせました。
恐ろしい光景なのに、私は、彼を誇りに思いました。
私も、鎌で、怪我をさせました。
大した怪我では無かったから、左の肩から、右の腰まで、ばっさりと刀で斬られてしまいました。
倒れながら、彼が斬られるのが見えました。
それでも何の恐怖も感じませんでした。
ただ「極楽浄土で会える」と思って、意識が消えました。
この時、男性に生まれていました。
アルコール中毒などでは無かったのですが、好きな方だったので、禁酒法は辛かったんです。
それで、マフィアから酒を買って飲む事もしていました。
法律の方が間違っているように思って、仕事を捨てて自分も売る側になりました。
この時、妻とは別れました。
その方が収入にもなったし、酒を簡単に安く手に入れられました。
それから、新しい女を妻にしました。
美しく奔放な女性、と言えば聞こえは良いけれど、外見が美しいだけの「あばずれ」だったと思います。
けれど私は、この妻も、新しい生き方も、スリルに溢れたもののように感じました。
とても楽しんでいました。
禁酒法が終わる事など、考えていませんでした。
しかしマフィアとあの「アンタッチャブル」の抗争が始まりました。
その後、禁酒法は無くなりました。
私が晩年、貧しい日を送り、孤独に死ななければならなかったのは、書くまでも無いと思います。
とても貧しくて、11歳で奉公に出される事になりました。
すでに、姉が13歳の時に奉公に出ていて、時々「御土産」を持って帰って来て、楽しそうに笑っていました。
姉は奉公している家から、お嫁に行って幸せになったので、むしろ喜んでいました。
けれど不思議に思う事が起こり始めました。
代金の「米俵」が姉の時よりも多く、小判まであったんです。
自分が姉より価値があるとは思えませんでした。
船に乗せられた人は、私と同じくらいか、当時の感覚で、大人と呼べるのは15歳の人くらいでした。
船の中で、名前を「よね」から「菊市郎」に変えられました。
通行手形を見せた船乗りと役人との会話を聞いていると、船に乗っているのは全て男性だと言っていました。
吉原に着いても、どういう事が自分の身に起こっているのか、判っていませんでした。
最初は現代で言う「家事手伝い」のような事をしていました。
仕事はしなくても良いのかな、というような事を考えていました。
14歳の頃、客を取るように言われました。
意味も判らないまま、ただ痛かったのを覚えています。
これが新しい仕事なのだ、と言われて怖くて逃げようとしました。
すぐ捕まってしまって、縄で縛られて、閉じ込められました。
空腹に耐えられなくなった時、おにぎりをもらいました。
とても美味しく感じられました。
新しい仕事をすれば好きなものが食べられるけれど、しないなら飢えて死ぬ、と言われました。
私は新しい仕事をすると答えました。
15歳の時、妊娠してしまいました。
すると、お腹を散々蹴られて、赤ちゃんは死にました。
この事は、当時の私には意味が判らなくて、他の遊女に「普通の事」と言われて納得しました。
その後も新しい仕事を続けようとしましたが、痛くてできなかったんです。
困っていると、新しい仕事だと言われて、綺麗な着物を着せてもらいました。
着いた家は、武家の家でした、
そこで私が「酒の肴」として、余興で嬲殺しになりました。
私は東ドイツの男性でした。
手紙の中で、届いていないものがある、と気づいていました。
こちらからの手紙も、何割が彼女の手に渡っていたのか分かりません。
それでも、彼女の手紙に書かれている西ドイツの世界に憧れました。
彼女がいるから、それだけでは無かったんです。
豊かで自由な国を思い描いて、彼女に会いたいと思っていました。
私は壁を越えようと決めました。
けれど、射殺されてしまいました。
私は壁から落ちながら思いました。
何故、会いたい人に会えないのか。
何故、行きたい国に行けないのか。
何故、幸福を求めてはいけないのか。
地面に倒れて、意識は消えました。
ベルリンの壁崩壊の日、テレビで映像を観ていると、涙が溢れました。
これが本来のあるべき姿だったのだと感じました。
あの時代は間違っていたんだと、そう思いました。
当時の私はインドの少女でした。
9歳で60歳近い男性の家に嫁がされました。
早いほど良いと言われていて、もっと年下の友人が結婚していました。
5、6人の妻がいるのは普通の事で、私より年上の妻達は、とても親切でした。
全員に恋愛感情が無いので、嫉妬も無いんです。
13歳の時、夫が亡くなりました。
私以外の妻は、夫の死体と一緒に生きたまま「火葬」されました。
現代では考えられない事ですが、共に死んだ方が幸福だったんです。
その後、私は「実家」にも帰れず、夫の家からも追い出されてしまいました。
共に死ぬ勇気が無かったと言われて、私は13歳で、カースト制度の最下層である「奴隷」にならなければなりませんでした。
餓死するのに、時間はかかりませんでした。
私はフランスの男性でした。
この記憶は、私にとって最も大切な記憶です。
8歳の時「髪の短い綺麗なお姉さん」に会いました。
この「お姉さん」が、あのジャンヌ・ダルクだったんです。
少年の私は、彼女が戦場で戦っているなんて、想像できませんでした。
あの優しい笑顔のお姉さんが、と信じられませんでした。
火刑にされると聞かされて、ありえない、と思って、刑場へ行きました。
現代の映画などでは、彼女は炎の中で苦しんで死んでいったように描かれていますが、違います。
最初は藁のようなものが山積みにされていて、中に彼女がいる、と教えられました。
私は、別人ではないか、と思いました。
火が付けられても、燃え上がらなかったんです。
しばらくして、処刑人が藁を外しました。
取り替えるつもりだったのか、それは分かりませんでした。
中には、確かに彼女がいました。
けれど、眠っているように安らかな表情で、息が絶えていました。
その表情は、8歳の時に見た彼女と変わっていませんでした。
私は、彼女の死後、大人になって戦いました。
死を恐れる気持ちはありませんでした。
大人の男になった私は「あの少女が戦ったのだ」と思えば怖いなんて思いませんでした。
私の中の聖女ジャンヌ・ダルクは勇敢な女性ではなくて、生涯にわたって忘れられなかった初恋の女性です。
その時の一生は、平凡な女性でした。
けれど、とても恐ろしい行いとしていました。
黒人の人が家畜よりも安い値段で、競売にかけられていて、私も夫と相談して買っていました。
「品物」を選ぶような感覚で、彼らに命が宿っていると思っていないんです。
息子が奴隷に鞭をふるうのを見ても、平気なんです。
彼らが肉体の痛みを感じても、苦痛を感じる心が無いと思っているんです。
私も夫も息子達も、白人に対しては優しさも思いやりも礼儀もあって、友人の些細な不幸に涙しているんです。
なのに、奴隷には些細な過失を理由に、平然と殺してしまうんです。
近所の白人の家庭も、同じでした。
街の大きな木に、殺した奴隷を絞首刑のような形で、ぶらさげていました。
目を覆うような形相も、ズタズタの身体も、腐りかけた死体も、何も感じないんです。
催眠から現実に戻ってから、鬱状態と、恐怖のせいで不眠症になりました。
けれど前世の私にとっては、平凡な生涯だったんです。
私は23歳のアメリカ人の男性でした。
戦争が始まって、日本が中国でしていることを知って、怒りを覚えました。
ナチスがユダヤ人にしていることを知って、迷わず兵役に就きました。
自分の国であるアメリカを、誇りに思っていました。
日本やドイツのしていることを「殺戮」と感じるのに、自分が日本人を殺しても、殺した、という意識はありませんでした。
私は頭を撃ち抜かれて、即死しました。
けれど、苦しいんです。
死にたくなかったんです。
身体から魂が抜けないんです。
軍医が死亡確認をしても、死んだことが信じられないんです。
仲間に「生きている」と言おうとして、声が出ないのは怪我のせいだと思い込んでいました。
葬儀で牧師の言葉を聞いて、やっと意識が消えました。